2021.12.24

「わたしが生の主人公!〜自らの力をとりもどす演劇」プレイアート・ラボvol.4レポート(前編)

2021年12月18日(土)に開催された、プレイアート・ラボ 第4回の開催レポート。

 

今回は、演劇とはふだん縁のない方たちと、あるテーマや課題について、表現を通じて一緒に考えたり何かを伝えようとするような、演劇的なワークショップやプロジェクトをさまざまに行ってきた花崎攝さんをお呼びし、トークしました。

 

演劇の活動の中で、参加者は自らの身体や感情、声などを使って表現することで、自分自身の力、現実を変える力を発見できるのではないか。そして自らがこの世界を創っていく生の主人公であるという気づきももたらすことができるのではないか。そんなところにも注目しながら、話題を深めていきます。

 

演劇などのアート活動をどう社会と接続していくか、考える機会となれば幸いです。

【スピーカー】

花崎攝(シアタープラクティショナー、野口体操講師)

 

劇団黒テントに在籍中にPETA(フィリピン教育演劇協会)などアジアの演劇人に出会い、現在は応用演劇の企画、進行、構成演出を中心に国内外で活動。主な仕事に、水俣病公式確認五十年事業「水俣ば生きて」構成演出(2006)。アチェ(インドネシア)の紛争被害にあった子どもたちのための演劇ワークショップ企画、進行(2007-2010)。コーディリエラ(フィリピン)の環境教育プロジェクト、Asia meets Asiaの活動など。ロンドン大学芸術学修士。武蔵野美術大学、日本大学、立教大学非常勤講師。演劇デザインギルド所属。

【案内役】
大河原芙由子(PLAY ART!せんだい)

花崎さんの原点、応用演劇

 私の原点は”黒テント”という劇団です。黒いテントを各地に持っていって、駐車場や校庭、、広場のようなところをお借りしてはテントを立てて劇場を作り、その中で劇をする活動をしていました。この劇団は、今も一応存続はしているんですが、テントは老朽化し使えなくなりました。私自身はもうやめています。

 

 この劇団にいた頃から私はアジアとの関わりの中で、いろんなことを学ばせていただいており、フィリピンの山の中に住んでいる先住民の若者たちと地域の歴史の一端をテーマとして演劇を作りました。

 

 それから、熊本県水俣市では、水俣病という有機水銀中毒での障害を負われた方たち、地域の方たち。水俣病をではない原因で障害を負った方も、同じ舞台に立って、公害をテーマとした演劇をやらせていただいたこともあります。

 

 1980、90年代の頃、こういった活動は『民衆演劇』と呼ばれていました。プロの人たちとだけではなく、一般の人、当時だと、農業や漁業に従事する人、工場で働いている人。そういう方たちと、あるテーマを設定して、自分たちの状況を表現し、外の人に伝える活動をしていました。1990年台に入ると、『応用演劇』という言葉が出てきました。これは、今私がやっているような演劇で、一番の特徴は、芸術性や娯楽以外の目的性を持つことと言われています。芸術性や娯楽とも切り離しているわけではなくて、しかしそれ以外の目的を持って、演劇を作ったり、演劇ワークショップを開催したり、活動を展開しているんですね。

 

 応用演劇はとても幅が広いです。民衆演劇もそのなかに含まれますし、学校で行われるような教育演劇。コミュニティシアター、ドラマセラピーなどなど。日本ではまだそこまでポピュラーになっていないですが、特にヨーロッパとかアメリカなどではずいぶん普及してきています。

演劇がクリアにしていくこと。

 今日ご紹介したいのは、2014年と15年に、2年かけて取り組んだテーマ”介助・介護・ケア”の演劇です。これは、『地域の物語』というプロジェクトのなかで行いました。『地域の物語』は、参加者を公募して、一般の方々に参加していただきます。参加者同士がお互いに話を聞き合ったり、外の方に取材に行ったり、それからインターネットや本、新聞を通じてのリサーチなどを通して地域を見つめ、それぞれのテーマを見つめ、様々な物語を掘り起こしながら、従来の形にとらわれない舞台を作り上げるワークショップです。

 

 作り上げた作品は、地域の物語として、シアタートラムという世田谷パブリックシアターの中に併設されてる劇場で上演しています。作品を作るプロセスを通じて、参加者の人たちのいろいろな想いを共有したり、発表をして参加者と観客の人たちが出会ったりすることも目指していきます。そういうプロジェクトです。

 

 この”介助・介護・ケア”のときは目的として、①参加者の介助介護に関わる経験を、ワークショップを通じてシェアして、参加者同士の会話を促し、その内容とプロセスを演劇として発表すること。②上演のときに、アフタートークを必ず時間を取ってやるんですが、そこでの観客との対話すること、を置いていました。

 

 あえて”介助”という言葉を使ったことがここではとても重要でした。障害のある方たちは介護という言葉を使っておられない。特に脳性麻痺の方たちはね。介助あるいは介護される/するという固定的な関係じゃないあり方を探ってみたい気持ちもありました。それから、介助を受ける人が主体になって、介助を作っていくところに、このとき関心を持っていたこともあって、介護ではなく介助という言葉をあえて使っています。

 

 私の関わったチームは、”排泄”について扱いました。やはり排泄はなかなか話題にしにくい部分も人によってはあると思うんですが、排泄と、介助介護は切り離せないのでね。それから、障害者のお子さんを持つ母親の方が参加されていたので、特に性の問題って「助けて」と他の人に言いにくい、話しにくいよねという話題も取り上げました。

 

 それから、介護職員の経験のある方も参加されていたので、特別養護老人ホームでの介護が、人手が足りないがために、次から次に、はいオムツ、はいお風呂、はい食事というように、流れ作業になってしまっていて、それがすごくつらいという話なども出ました。

 

 私として一番印象的だったのは、なかなか「助けて」とは言えないということですね。家族内でもそうですし、家族内での問題だからこそ外にはもってのほかで。だけど、「助けて」と言っていくこと、言えるようになることがすごく重要かなと地域の物語を進行しながら、発見した。いや、大切であることは皆さん感じてはいたんだけれども、改めてクリアになったなぁと思いました。

<<後編につづきます>>

(文:熊谷麻那)

助成:公益財団法人仙台市市民文化事業団 
   多様なメディアを活用した文化芸術創造支援事業